2010年04月24日

岩崎弥太郎の人柄

岩崎弥太郎は三菱グループの創立者と言う事もあって、多くの方は財閥の出で裕福だったのではと思う人も多いでしょう。しかし、岩崎弥太郎は恵まれた環境の下で幼少時代を送った訳ではありませんでした。

岩崎家の身分は「地下浪人」と言う身分でした。「地下浪人」とは地下に投獄されていると言う意味ではなく、郷士の株を売って居ついてしまう浪人の事を指していたそうで、かなり身分は低かったそうです。ですから、岩崎弥太郎の幼少時代と言うのは、本当に極貧生活で苦しかったと言っても良いと思います。

しかし、岩崎弥太郎は才覚を発揮し、起業家として成功までした人です。何故ここまで出世する事が出来たのでしょうか。岩崎弥太郎は秀才とまで言われ、当時の土佐藩主に褒められた経緯もあります。その才能を生かして勉学に勤しんだと言います。その後江戸に遊学に出向く事になるのですが、その前に地元の神社に参拝をして、そこの扉に「後日 英名ヲ天下ニ轟カザレバ 再ビ帰リテ此ノ山ニ登ラジ」と書き、幼いながらにもその心に大志を抱いた様です。それが多いなる野望に繋がったのでしょう。

今でも岩崎弥太郎の生家が残されていますが、その庭石は日本列島を模って並べているのではないかと言われていて、幼少の頃から日本全土を思って野望を抱いていたのかもしれません。その極貧時代を送った経験が、将来「東洋の海上王」と呼ばれるようになるまで上り詰める引き金になったのかもしれません。

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2010年04月04日

キリンビールの設立

岩崎弥太郎の長男である岩崎久弥が、三菱の第3代総帥になってからは、事業を統括していきます。事業の中心は鉱業や造船と言った物でしたが、久弥が個人的に興味を持っていたのは「紙」と「ビール」だったそうです。

横浜では、明治初期の頃から「スプリング・ヴァレー・ブルワリー社」でビールを作っていました。その会社を岩崎弥之助、岩崎弥太郎と敵対していた渋沢栄一等の財界人を始めとして、横浜に住んでいた外国人達が出資する形で買収をしました。買収後名前を「ジャパン・ブルワリー社」と言う名前に変更しています。

この頃、ビールと言うアルコールは日本人にとっては余り馴染みが無く、普及もさほどしていなかったと言います。しかし明治屋と言う総合代理店が「キリン」のラベルを使って一般の人向けに発売をした事がキリンビールの初と言う事になります。

明治40年に、輸入販売業者の総合代理店だった明治屋と、岩崎家、更に日本郵船が合同になって「麒麟麦酒株式会社」を設立する事になりました。

当初は神奈川県鶴見に工場を作りましたが、その後は仙台、広島等、日本で何カ所か工場を作り、朝鮮や満州等海外にも作って事業を展開していったと言います。

その後、キリンビールは日本でも1位2位を争うビール会社に成長し、他のビール会社とのシェア争いをしていく事になります。岩崎久弥はキリンビールの買収には関わりましたが、経営と言う部分に関与する事は無かった様です。

posted by 岩崎弥太郎 at 23:18| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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