2010年05月24日

岩崎家の子孫達

岩崎弥太郎は、妻である喜勢夫人との間に、1男2女を設けました。長女、春路は内閣総理大臣にまでなった加藤高明と言う人の妻になりました。他に、第3代三菱の総帥となった久弥、二女である磯路がいます。また岩崎弥太郎は養子も1人迎え入れ、名を昌作と言いました。昌作は実業化であった郷誠之助の4男であったと言います。岩崎家の養子が決まると名前を豊弥に変えました。この豊弥は後に岩崎家から分家する事になります。

ちなみにですが、豊弥の姉である幸子が嫁いだ先は川崎財閥であった為、岩崎家は郷家を介す事で、川崎財閥と姻戚関係を結ぶ事になりました。

更にですが、岩崎家は養子の豊弥を通じて皇室と繋がる事になるのですが、これは、豊弥の長女が昭和天皇の侍従長を長い間努めていた事に始まります。そこから入江相政と言うエッセイストと結婚をしました。その旦那である入江の姉は高木正得子爵と言う所に嫁いでいたのですが、娘(二女)が三笠宮崇仁親王と結婚したのです。少し複雑で血縁は全然ないのですが、岩崎家、入江家、高木家と言う様に介していき皇室と繋がる事になりました。とは言ってもかなり遠い関係と言う事になります。

岩崎弥太郎の二女である、磯路は木内重四郎と言う京都府知事をした事がある人と結婚をし、子供を5人設けています。

磯路の次男は木内信胤と言う経済評論家になりました。磯路の二女は渋沢栄一の孫と結婚しました。渋沢栄一の孫は大蔵大臣や、第一銀行の副頭取まで担った人です。

この他にも、岩崎弥太郎の子孫達は、物凄い人物達との交流を深め、姻戚関係になって行ったと言いますから、物凄い家系図になっていると思います。

posted by 岩崎弥太郎 at 23:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

岩崎弥太郎のお母さん

明治9年頃、岩崎弥太郎の母岩崎美和は、長女である春治の所(大阪)へ暫く身を寄せていた事があると言います。その頃は毎日の様に弥太郎から母へ手紙を送っていたそうです。内容はとにかく「無事で」「早く帰ってきて」と言う様な、母親に対する愛情が見える内容だった様です。

明治9年頃と言うと、岩崎弥太郎にとっては「郵便汽船三菱会社」を作り(日本国郵便汽船会社を吸収すると言う形で作りました。)、政府の助成策を享受する等している頃で、勢いが止まらなかった時期になります。三菱商会の仕事で昼間は忙しく奮闘し、夜は人脈作りの為なのか、毎晩どんちゃん騒ぎをしていた様だったのに、マメに母親に手紙を書いていた事は本当にビックリです。

岩崎弥太郎の母、美和は元々町医者の娘として産まれました。それが土佐の井ノ口村の地下浪人であった岩崎彌次郎の所に嫁ぐ事になる訳ですが、それは貧しい暮らしだった様です。それでも誇りを失わずに常に凛とした態度でいたそうです。弥太郎を始めとした子供たちにとって、美和はとても大きな影響力を持っていて、それは生涯変わらなかったとか。

岩崎弥太郎が海運事業に乗り出し、忙しい毎日を送っていた頃、母は弥太郎を厳しく諌めたり、励ましてきたりして常に心に安定をもたらす存在としていた様です。

また、美和は岩崎家の家訓を残していた様ですが、その中に「貧しい時代の頃を忘れるな」と言う様な内容の家訓がありました。これは弥太郎に対する戒めの言葉だったかもしれません。この言葉を思い出すたびに弥太郎は身が引き締まる思いをしたといいます。

posted by 岩崎弥太郎 at 23:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月07日

岩崎久弥は聞き上手

岩崎久弥はとても聞き上手であったと言います。人の話を相槌を打って良く聞いてくれて、相手が信頼出来る人だと判断すると、話の方向性のみ確認をして、後はその人に任せたと言います。

岩崎久弥は、人を信頼する事に長け、人に信頼もされていた人物で、人の上に立つ人間としてはとても大切な要素を持ち合わせていた人だった様です。

岩崎弥之助が、岩崎弥太郎の遺言により久弥を三菱社の総帥にしますが、その時期はとても速く、久弥が弱冠28歳と言う事でした。久弥の人柄もそうですが、岩崎弥太郎が生存していた時から、尽力を尽してくれた幹部達がいてくれたからこその判断でもあった様です。

そんな久弥が50歳を迎えた頃、当時36歳であった岩崎弥之助の息子である小弥太に三菱社の社長の座を譲ったのは余りにも唐突な出来事であった様です。三菱社の事業は順調に進んでおり、益々の活躍が期待されていたと言います。それも社長である久弥、副社長である小弥太のコンビネーションがあってこそだったと言われています。ですから、まだ50歳の若さで社長を交代する必要性は無かったのではないでしょうか。

しかし、ここが久弥の凄い所だった様です。こう言う好調の時だからこそ後継者を譲ると言う事が人を信頼している証だったのでしょう。小弥太に社長を譲ってからは、小弥太を信頼していたので、経営に関して口をはさむ事は決してしなかったそうです。

久弥は引退後、小岩井農場の事業を楽しんで行う等して、楽しく社会貢献しながら余生を過ごしたと言います。


posted by 岩崎弥太郎 at 03:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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