2010年07月27日

三菱商会の誕生

明治4年の頃、廃藩置県が行われ、岩崎弥太郎はこの時に土佐藩小参事と言う立場を失う事になりました。時を同じくして後藤象二郎、板垣退助に説得される様な形でつくも商会の経営を任される事になりました。これが岩崎弥太郎が実業家として始動する第一歩になりました。つくも商会の経営を行うと決めたあたりから、弥太郎は士官を目指す事を諦め、起業家として生きる決意を固めたと言います。

三菱商会が生まれた原点は、岩崎弥太郎が譲り受けた「つくも商会」になります。

岩崎弥太郎はとても野心家で、気性の激しい性格だったと言います。幹部達も弥太郎の顔色を伺いながら仕事をしていたそうで、それを見ていた弥太郎はとてもまどろっこしくなり、独裁体制を築き上げたそうです。弥太郎の独裁体制に入った時に、社名も「三菱商会」と改め野望のごとく突き進む事になりました。

この頃、弥太郎の弟である弥之助が留学先から帰国した事で、三菱商会の体制は万全を迎えます。明治7年、三菱商会は東京日本橋に本店を移し、名前も三菱商会から三菱蒸気船会社として新たに指導しました。この時に弥太郎の呼び方も当時の「旦那」と言う呼び方から「社長」と言う呼び方に変わったそうです。

岩崎弥太郎の思いとしては、この事業が成功するか否かは、お客様に対するサービス次第なのでは?と言う思いが有ったと言います。しかし、社員はほとんど下級でも武士出身の為に人に対して頭を下げると言う事が出来ないでいました。そんな武士のプライドを捨てられない社員達に、笑顔で頭を下げる様に矯正する事がとても大変だったらしいです。
posted by 岩崎弥太郎 at 23:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月14日

岩崎弥太郎が創立した三菱商船学校

明治維新後、日本の海運業界は国際的観点から見ても遅れていたそうです。その為、岩崎弥太郎は明治8年、三菱商船学校を東京の隅田川河口に設立しました。

船舶運航技術を習得し、船員を育成する事を目的としていましたが、その一方で、民族資本の海運会社を育てる事も政府からの命令であったと言います。そう言った命令が政府から三菱に対して第一命令書と言う形で発せられました。その代わりに本当に色々な助成が行われていたそうです。

三菱商船学校の第1期生は44名程でした。三菱商船学校の校長を務めていた中村六三郎氏は元々幕府が行っていた海軍伝習所を卒業して今の東京大学で教えていた所、三菱商船学校の校長として抜擢された様です。また、三菱商船学校の教師陣には外国人もいたと言います。これは船員を養成すると言う義務から来ている物で、その時に三菱では外交人船員が数多く採用されていたそうです。また、当時運行されていた蒸気船は、殆ど外国人の手によって運行されていたと言います。

三菱商船学校はかなり近代的な学校として、意義があったようです。こう言った学校が岩崎弥太郎が若い時にあったならば、きっと入って授業を聞きたかったに違いありません。
また、岩崎弥太郎は三菱商船学校と言う海運業に関する学校だけでなく、商業に関する学校、三菱商業学校も設立しました。

この様に、事業に関する人材を育てる為の学校を惜しげもなく作り、欲しい人材を自分達の手で養成していくと言う手法を取っていたのです。
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2010年07月05日

岩崎弥之助は多趣味


岩崎弥太郎は子供達や、社員達の育成には力を注いだと言われていますが、弟である弥之助も同じ様に子供達の育成に力を注いだと言われています。

弥之助は学寮を建てました。その学寮には優秀な学生が入寮すると共に、質素剛健を目的とした規則正しい、規律がしっかりしている生活が送れるようになっていました。岩崎弥之助の長男や次男も例外ではなく、中学に入るとその寮に入れられ、上下関係がしっかりした中で色んな事を学んだと言います。また、休みの日には自宅に戻ってきていたそうですが、色んな遊びやスポーツを忙しく楽しんでいたと言います。

岩崎弥太郎の弟である岩崎弥之助は、とても多趣味だったと言われています。それほど好奇心が旺盛だったと言う事なのですが、古典籍収集、建築、園芸、東洋文化、美術品等、本当に数え切れない程興味がある物があり、その収集品に関してだけでもかなりの数だったと言います。その収集品を収納した美術館までも作られた程です。現在は世田谷にその場所を移し、岩崎弥之助の長男である小弥太の収集品等も一緒に展示されていると言います。また、現在では国宝品、重要文化財品等数多くの展示物を収蔵しています。

また、漢学の収集についてはかなり重きを置いていたみたいで、幼少の頃は漢学を学んでいたとは言え、そこまで興味が有ったと言う訳では無かった様です。しかし、恩師である重野の為に、私財を投入してまで漢籍収集をするようになったと言います。その数は何万冊とも言われています。

posted by 岩崎弥太郎 at 23:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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