2010年10月29日

岩崎弥太郎が海運と出会った理由

1865年、西郷隆盛の支持を得て、亀山社中を結成したのは坂本龍馬でした。亀山社中の役割と言ったら、航路を使って物資を輸送する事、その他には航海訓練を行う事と言った役割でした。

この頃、土佐藩の中でかなりの実力を付けていた後藤象二郎ですが、開成館と言う組織を結成して、土佐の商品を売ると言う商いをしながら、富国強兵をしようと志していましたが、そうは上手くはいきませんでした。その事から1867年に土佐商会の責任者として岩崎弥太郎を抜擢したという事です。岩崎弥太郎はここから経済への道を歩むことになります。

その頃、後藤象二郎と坂本龍馬は長崎で会談をし、大政奉還への道を進めようとします。同年坂本龍馬に対する脱藩の罪が許されると、亀山社中から海援隊と名前を改め、土佐藩の為に色々と尽力を尽くす事になりました。この時、海援隊の経理を担当したのが岩崎弥太郎だった様です。

岩崎弥太郎は交渉術にも長けていた様で、海援隊が「いろは丸」と言う船で処女航海している最中、徳川家紀州藩の船と衝突して沈没してしまいました。相手が相手だけに賠償請求もなかなか上手くいかなかった所、岩崎弥太郎が上手い、紀州藩に対して賠償をしてもらえる様になったと言われています。

その後大政奉還も出来たのですが、同年、坂本龍馬が暗殺された事により、海援隊は勢力を失っていく事となります。その後海援隊は分裂しましたが、それを岩崎弥太郎はつくも商会や郵便汽船三菱会社等、三菱グループに分散させて発展させていく事になりました。坂本龍馬との出会い、これが岩崎弥太郎と海運が出会ったきっかけであった様です。
posted by 岩崎弥太郎 at 23:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月11日

岩崎弥太郎の思い

幕末の時代、土佐に生まれた一人のわんぱく坊主が、海を見ながら広い世界に思いをはせていた幼少時代。そんなわんぱく坊主の岩崎弥太郎が35歳になった時、つくも商会を大阪に経営を任される形で創設させ、たった5年と言う短い年月で「東洋の海運王」と呼ばれるまでになりました。その後、50歳までの10年間まっすぐに前を見続けた生涯を送ったのが岩崎弥太郎です。

岩崎弥太郎は、本当に立ち止まると言う事を知らなかった人物です。業績をあげ、色んな人からの妨害も受けながらも一歩も譲る事無く、自分の信念を貫き通した生涯であったと言えます。

東京の自宅にて病に倒れ、死を目の当たりにした弥太郎は、今までに出会ってきた多くの人達の事をきっと思い出していたのではないかと思います。師と仰いだ吉田東洋を始め、後藤象二郎、坂本龍馬、福沢諭吉、渋沢栄一、ジョン万次郎、等そうそうたる面々です。本当に自分の意思を貫き、波乱万丈に生き、そしてとても中身の濃い人生だったのではないでしょうか。

明治18年に50歳と言う若さで亡くなりましたが、その直前まで岩崎弥太郎の意識ははっきりしていたと言います。病気の為に激痛で苦しみながら三菱グループの為、後継者の事の遺言を残したそうです。

志半ばにして病に倒れた弥太郎の代わりに、その遺言どおり、弟である弥之助が三菱の後を引き継ぎ、その更に後を息子である久弥、小弥太等が引き継いでいきました。それが今の三菱グループの原点となっています。
posted by 岩崎弥太郎 at 13:12| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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