2010年11月28日

岩崎弥太郎と三菱

土佐商会と言う会社があったのですが、明治維新が終わった後、名前を土佐商会から「つくも商会」に改名しました。明治4年に廃藩置県が行われましたが、この時に「つくも商会」の施設を譲り受けたのが岩崎弥太郎でした。

また施設を譲り受けたのをきっかけにして「三菱商会」と言う会社を創設する事になり、現在の三菱グループの原点になります。今ではお馴染みである三菱のマークは、この時定められたそうです。何故あのような三菱マークを商標にしたかと言うと、三蓋菱と言う岩崎家の紋と、三葉柏という岩崎弥太郎を認めてくれた土佐藩主山内家の紋を組み合わせたマークだと言われています。

岩崎弥太郎は元々「海援隊員」と言う事もあって、海運業にかなり力を入れていたと見られ、その功績から「東洋の海上王」とまで言われる様になったと言います。しかしその功績も空しく、52歳と言う若さで無くなる事になりました。

今の三菱グループがあるのは、岩崎弥太郎がいたからなのだと言う事が分かります。

そんな岩崎弥太郎ですが、高知県安芸駅から自転車に乗って20分程行った場所に、岩崎弥太郎の生家があります。当時はどういう所だったかは定かじゃありませんが、現在では一面田んぼと言うのどかな場所になっています。その生家は今でも残っていて、何ともいえず温かい雰囲気が出ている家になっています。車1台がなんとか通れるような道沿いに立てられていますが、その現代とはかけ離れている場所だからこそ、当時の雰囲気があふれているのかもしれません。そんな場所で育った岩崎弥太郎が三菱グループの創始者になるまでは、色々苦難も有った様です。

posted by 岩崎弥太郎 at 03:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月24日

岩崎弥之助について

岩崎弥之助は岩崎弥太郎の弟で、三菱財閥の2代目総帥となった人物です。元々は兄の片腕として九十九商会時代から働いていましたが、明治18年に兄である岩崎弥太郎が死亡した事を期に、兄の意思を次いで三菱の2代目として就任しました。

岩崎弥太郎が総帥の時は、一時期経営の危機にまで陥ってしまった事がありましたが、弥之助に総帥が変わってからは、経営が多角化していきました。そこから三菱は急速に事業を発展させていく事になりました。

今の人達が知る所で、岩崎弥之助が手掛けた所と言うと東京の丸の内周辺であったと言います。元々岩崎家は高知県出身の地下浪人の出でありましたが、一族で東京に移り住み、弥太郎、弥之助等の活躍により財力を付けていきました。

また、明治23年頃には東北新幹線が今の盛岡まで開通しました。岩手と言うと小岩井農場を知っている人も多いでしょう。バターや牛乳、アイスなど多くの乳製品も有名です。その小岩井農場を開設したのが、岩崎弥之助を始めとした、当時の日本鉄道会社副社長である小野義真、鉄道庁長官であった井上勝だったそうです。小岩井農場の開設は経営としても大成功を収めた様で、多角経営の一貫として大いに役立った様です。

明治32年には、3人の経営から岩崎家独自の所有物となった様です。弥之助はそれだけに留まらず、弥太郎の長男である久弥を三菱の3代目総帥としたら、自信は日本銀行の第4代総帥として活躍したそうです。

posted by 岩崎弥太郎 at 23:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月12日

三菱が独占

台湾出兵をした際に軍事輸送を三菱が手助けした事が、政府への絶大なる信頼に変わった三菱に対して、第一命令書が発令され、海運助成策を独占、その要請に応える様な形で、三菱は全社を挙げて軍事輸送を行ったと言われています。

この為、三菱と政府の間には信頼関係が生まれ、日本と言う国の中に三菱の地位を確立したと言います。ここから日本経済の発展においても大きな力を発揮していく事になります。まさに岩崎弥太郎の三菱独占状態と言う状態になってきたと言う事です。

また三菱への助成を推進していた人物には、大隈重信、大久保利通がいましたが、その大久保利通が明治11年、暗殺されてしまう事になります。この事が出る杭は打たれると言う事を暗示していたのかもしれません。

この頃、自由民権運動が強まってきている所で、伊藤博文、大隈重信の意見が対立を深めていました。大隈重信の意見は福沢諭吉の考えと当時似ていた物で、国会開設を早める事、英国と同じ様な議院内閣制を実施する事を主張していました。一方伊藤博文は全身的な国会の開設、君主権限が強い国家にする事を主張していました。

明治14年、大隈重信の意見が通る様な出来事が起こり、政府が批判にさらされる事態になりましたが、逆に大隈重信は罷免されてしまいます。

この事を境にして、自由民権運動はますます勢いを付ける事になり、大隈重信は立憲改進党を結成して政党政治が出来る様に改革を進めていったと言います。これは伊藤博文等にとっては脅威な事でした。なぜなら大隈重信には、福沢諭吉の知恵が付いていましたし、なにより岩崎弥太郎が持っている財力がありましたから。

posted by 岩崎弥太郎 at 23:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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