2010年03月26日

岩崎弥太郎が出世した理由


後藤象二郎の叔父である吉田東洋が手掛けていた私塾に、岩崎弥太郎も入塾していたといいます。ある一説によりますと、吉田東洋は甥である後藤象二郎に宿題を出したそうです。もちろん回答を書いて後藤象二郎は提出したのですが、その回答が余りにも見事だったそうで、不思議に思い後藤象二郎を問いただしたそうです。それで、岩崎弥太郎が代筆したのだと白状したといいます。この事をきっかけにして、吉田東洋は岩崎弥太郎に対して一目置いたのだと言う事です。

吉田東洋が手掛けていた小林塾では、身分など関係無く勉強したいと言う若者を受け入れていたそうで、ここで岩崎弥太郎が再び認められて世に出るきっかけになったのではないかと思います。

1858年に日米修好条約が調印され、安政の大獄が起こります。吉田東洋はこの時に土佐藩の政治に復帰する事になります。その時に土佐藩は藩財政危機の真っただ中にあり、その救済策として海外貿易を行って国内産業を盛んにしようと考え付きます。その調査をする為に調査団を作るのですが、その時に吉田東洋の推薦で岩崎弥太郎が入る事になりました。

その時に色々な仕事に従事する一方で、長崎にて海外事情もたくさん学んでいたと言われています。岩崎弥太郎は吉田東洋のお陰で、大いに出世した事が分かります。もちろん岩崎弥太郎も吉田東洋の事を尊敬していた事でしょう。

その後は、吉田東洋も暗殺され、藩費を浪費したとの責任問題も問われ、岩崎弥太郎自身も職を辞する事になりました。

posted by 岩崎弥太郎 at 22:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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