2010年07月14日

岩崎弥太郎が創立した三菱商船学校

明治維新後、日本の海運業界は国際的観点から見ても遅れていたそうです。その為、岩崎弥太郎は明治8年、三菱商船学校を東京の隅田川河口に設立しました。

船舶運航技術を習得し、船員を育成する事を目的としていましたが、その一方で、民族資本の海運会社を育てる事も政府からの命令であったと言います。そう言った命令が政府から三菱に対して第一命令書と言う形で発せられました。その代わりに本当に色々な助成が行われていたそうです。

三菱商船学校の第1期生は44名程でした。三菱商船学校の校長を務めていた中村六三郎氏は元々幕府が行っていた海軍伝習所を卒業して今の東京大学で教えていた所、三菱商船学校の校長として抜擢された様です。また、三菱商船学校の教師陣には外国人もいたと言います。これは船員を養成すると言う義務から来ている物で、その時に三菱では外交人船員が数多く採用されていたそうです。また、当時運行されていた蒸気船は、殆ど外国人の手によって運行されていたと言います。

三菱商船学校はかなり近代的な学校として、意義があったようです。こう言った学校が岩崎弥太郎が若い時にあったならば、きっと入って授業を聞きたかったに違いありません。
また、岩崎弥太郎は三菱商船学校と言う海運業に関する学校だけでなく、商業に関する学校、三菱商業学校も設立しました。

この様に、事業に関する人材を育てる為の学校を惜しげもなく作り、欲しい人材を自分達の手で養成していくと言う手法を取っていたのです。
posted by 岩崎弥太郎 at 23:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月05日

岩崎弥之助は多趣味


岩崎弥太郎は子供達や、社員達の育成には力を注いだと言われていますが、弟である弥之助も同じ様に子供達の育成に力を注いだと言われています。

弥之助は学寮を建てました。その学寮には優秀な学生が入寮すると共に、質素剛健を目的とした規則正しい、規律がしっかりしている生活が送れるようになっていました。岩崎弥之助の長男や次男も例外ではなく、中学に入るとその寮に入れられ、上下関係がしっかりした中で色んな事を学んだと言います。また、休みの日には自宅に戻ってきていたそうですが、色んな遊びやスポーツを忙しく楽しんでいたと言います。

岩崎弥太郎の弟である岩崎弥之助は、とても多趣味だったと言われています。それほど好奇心が旺盛だったと言う事なのですが、古典籍収集、建築、園芸、東洋文化、美術品等、本当に数え切れない程興味がある物があり、その収集品に関してだけでもかなりの数だったと言います。その収集品を収納した美術館までも作られた程です。現在は世田谷にその場所を移し、岩崎弥之助の長男である小弥太の収集品等も一緒に展示されていると言います。また、現在では国宝品、重要文化財品等数多くの展示物を収蔵しています。

また、漢学の収集についてはかなり重きを置いていたみたいで、幼少の頃は漢学を学んでいたとは言え、そこまで興味が有ったと言う訳では無かった様です。しかし、恩師である重野の為に、私財を投入してまで漢籍収集をするようになったと言います。その数は何万冊とも言われています。

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2010年06月29日

岩崎弥太郎と福沢諭吉

誰でも知っている1万円札の顔、福沢諭吉が生まれたのは天保5年で、奇しくも岩崎弥太郎が生まれた次の日だったそうです。福沢諭吉は学問に長けていて、蘭学を学び、英語も学びました。その功績もあり、幕府の欧米使節として3度随行したと言います。また、西洋の制度だったり、理念だったりと言う事について本を書く事で紹介していったと言います。

その福沢諭吉が書いた著書『西洋事情』は、出版されるや否やベストセラーになった様ですが、その本への魅力に岩崎弥太郎は魅入られて福沢諭吉のファンになったのではないかと思います。

福沢諭吉は東京三田に慶応義塾を開設しました。そこで、先生として教鞭を取っていました。その頃岩崎弥太郎は大阪にて海運業を立ち上げ、つくも商会から三菱商会へと改名をし、慶応7年に東京へ本社を移転しました。

当時、海運業の大手は日本国郵便汽船会社と言う所で、その態度は余りにも大きかったそうです。しかし、事業の成功はお客様へのサービス次第と思っていた岩崎弥太郎は、東京に進出した際、店の正面におかめの顔をした看板を掲げたと言います。おかめというと、愛くるしい程の笑顔で見る物の心を和ませます。そのおかめの顔と同じ顔で接客をしろと社員に指導していたそうです。

そう言った状況を視察した福沢諭吉は、岩崎弥太郎は商売の本質を心得ていると言う事で感銘を受け、慶応義塾の塾生に語っていたそうです。

福沢諭吉と岩崎弥太郎はお互いに一目を置くと言う関係があったそうで、三菱の経営を近代化していく大きな役割を果たしていく事になっていったそうです。

posted by 岩崎弥太郎 at 23:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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