2010年11月24日

岩崎弥之助について

岩崎弥之助は岩崎弥太郎の弟で、三菱財閥の2代目総帥となった人物です。元々は兄の片腕として九十九商会時代から働いていましたが、明治18年に兄である岩崎弥太郎が死亡した事を期に、兄の意思を次いで三菱の2代目として就任しました。

岩崎弥太郎が総帥の時は、一時期経営の危機にまで陥ってしまった事がありましたが、弥之助に総帥が変わってからは、経営が多角化していきました。そこから三菱は急速に事業を発展させていく事になりました。

今の人達が知る所で、岩崎弥之助が手掛けた所と言うと東京の丸の内周辺であったと言います。元々岩崎家は高知県出身の地下浪人の出でありましたが、一族で東京に移り住み、弥太郎、弥之助等の活躍により財力を付けていきました。

また、明治23年頃には東北新幹線が今の盛岡まで開通しました。岩手と言うと小岩井農場を知っている人も多いでしょう。バターや牛乳、アイスなど多くの乳製品も有名です。その小岩井農場を開設したのが、岩崎弥之助を始めとした、当時の日本鉄道会社副社長である小野義真、鉄道庁長官であった井上勝だったそうです。小岩井農場の開設は経営としても大成功を収めた様で、多角経営の一貫として大いに役立った様です。

明治32年には、3人の経営から岩崎家独自の所有物となった様です。弥之助はそれだけに留まらず、弥太郎の長男である久弥を三菱の3代目総帥としたら、自信は日本銀行の第4代総帥として活躍したそうです。

posted by 岩崎弥太郎 at 23:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月12日

三菱が独占

台湾出兵をした際に軍事輸送を三菱が手助けした事が、政府への絶大なる信頼に変わった三菱に対して、第一命令書が発令され、海運助成策を独占、その要請に応える様な形で、三菱は全社を挙げて軍事輸送を行ったと言われています。

この為、三菱と政府の間には信頼関係が生まれ、日本と言う国の中に三菱の地位を確立したと言います。ここから日本経済の発展においても大きな力を発揮していく事になります。まさに岩崎弥太郎の三菱独占状態と言う状態になってきたと言う事です。

また三菱への助成を推進していた人物には、大隈重信、大久保利通がいましたが、その大久保利通が明治11年、暗殺されてしまう事になります。この事が出る杭は打たれると言う事を暗示していたのかもしれません。

この頃、自由民権運動が強まってきている所で、伊藤博文、大隈重信の意見が対立を深めていました。大隈重信の意見は福沢諭吉の考えと当時似ていた物で、国会開設を早める事、英国と同じ様な議院内閣制を実施する事を主張していました。一方伊藤博文は全身的な国会の開設、君主権限が強い国家にする事を主張していました。

明治14年、大隈重信の意見が通る様な出来事が起こり、政府が批判にさらされる事態になりましたが、逆に大隈重信は罷免されてしまいます。

この事を境にして、自由民権運動はますます勢いを付ける事になり、大隈重信は立憲改進党を結成して政党政治が出来る様に改革を進めていったと言います。これは伊藤博文等にとっては脅威な事でした。なぜなら大隈重信には、福沢諭吉の知恵が付いていましたし、なにより岩崎弥太郎が持っている財力がありましたから。

posted by 岩崎弥太郎 at 23:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月29日

岩崎弥太郎が海運と出会った理由

1865年、西郷隆盛の支持を得て、亀山社中を結成したのは坂本龍馬でした。亀山社中の役割と言ったら、航路を使って物資を輸送する事、その他には航海訓練を行う事と言った役割でした。

この頃、土佐藩の中でかなりの実力を付けていた後藤象二郎ですが、開成館と言う組織を結成して、土佐の商品を売ると言う商いをしながら、富国強兵をしようと志していましたが、そうは上手くはいきませんでした。その事から1867年に土佐商会の責任者として岩崎弥太郎を抜擢したという事です。岩崎弥太郎はここから経済への道を歩むことになります。

その頃、後藤象二郎と坂本龍馬は長崎で会談をし、大政奉還への道を進めようとします。同年坂本龍馬に対する脱藩の罪が許されると、亀山社中から海援隊と名前を改め、土佐藩の為に色々と尽力を尽くす事になりました。この時、海援隊の経理を担当したのが岩崎弥太郎だった様です。

岩崎弥太郎は交渉術にも長けていた様で、海援隊が「いろは丸」と言う船で処女航海している最中、徳川家紀州藩の船と衝突して沈没してしまいました。相手が相手だけに賠償請求もなかなか上手くいかなかった所、岩崎弥太郎が上手い、紀州藩に対して賠償をしてもらえる様になったと言われています。

その後大政奉還も出来たのですが、同年、坂本龍馬が暗殺された事により、海援隊は勢力を失っていく事となります。その後海援隊は分裂しましたが、それを岩崎弥太郎はつくも商会や郵便汽船三菱会社等、三菱グループに分散させて発展させていく事になりました。坂本龍馬との出会い、これが岩崎弥太郎と海運が出会ったきっかけであった様です。
posted by 岩崎弥太郎 at 23:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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